「くすりや」の「現場」

薬屋が見た、聞いた、考えた、さまざまなことを書いていくブログ

自己犠牲の上に成り立つ医療は、もう終わりにしなければならないけど、他人の自己犠牲を「美しい!」とうっとり望む人もいる。

 

www.huffingtonpost.jp

 医師、特に勤務医の長時間労働について問題になっています。

当直明けの医師が手術をするなど、患者が生命の危険にさらされる恐れがあります。

その場の患者さんは、自分の健康が守られて「嬉しい」で済むのですが、もし、自分が睡眠不足の医師による手術をうけることになったらどう思うでしょうか。 

 医療の機能として捉えると、「ああ、手術ができてよかった」で済むのですが、「その先に人がいる、家族がいる」となったら複雑な心境になるのではないでしょうか。医師が長時間働けている背後にいる家族の努力も想像するとさらに複雑に。

 しかし、自分や家族が病気のときはそんな想像力が吹っ飛んでしまうほどギリギリの精神状態になります。普段なら「先生ご無理を言って」と思うのだろうけど、そこまで発送が及ばない。それがわかっているから、医師も患者や家族を責めない。明らかに軽症の患者が「待つのがいやで」夜に受診するのとは違う心理状態だからだ。

 そういう心理状態になるからこそ。運営するシステムの方で医療を提供する側と受ける側の歩み寄りを設定しないといけない。しかし、決める側は患者が多く来たほうが儲かるかとか、自分も患者の側だといい理由で医療を提供する側の心身の健康には配慮をしない。

 医療が、継続して提供できる最も効率的な方法は「一人の医療者が、燃え尽きることなく長期間現場に立ち続ける」こと。燃え尽きないためにも、十分な休息は必須だ。長期間無理なく立ち続けることで、後進への指導もできる。

 休息時間があれば、知識をつける時間が増える。知識とは専門的なものだけではない。生活人として暮らせることで、通り一遍の指導ではなく、患者の生活に配慮した説明ができる。心身の余裕があれば、相手に配慮ができる。

 長期間観察することができれば、同じ人の経過や時代によってかわる医療の傾向をつかむことができる。指導する後進の人数が増える。

 

 人の自己犠牲を喜ぶ人は、心の中の深いところ、自分でも気づいていないところで「人の不幸を願っている」のかもしれない。自分には自己犠牲ができないから、他人のを喜んでいるのかもしれない。

 供給できる人材は有限だ。それを考えると、お互い無理をしない無理をさせないのがベターではないか。

 

 

 

 

 

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