「くすりや」の「現場」

薬屋が見た、聞いた、考えた、さまざまなことを書いていくブログ。「ブログに書いてある情報は一般的なものです。ご自身に合ったものにするにも、受診している医療機関のスタッフ、かかりつけの薬局の薬剤師に相談しましょう。」正論でぶっ叩かない医療者に!

科学と共感の相性はかくも悪く

 しばし政治が科学的なものから外れて、がっかりする医療従事者や科学の専門を修めた人の嘆きが散見されます。これは仕方がないと感じた体験を紹介します。

以下のつぶやき。

 

 こちらは、ワクチンに対して懐疑的な意見を持つ方のつぶやきです。この意見に賛同する意見が多数集まっています。こちらのつぶやき、科学的には間違った解釈なのですが、賛同を得やすい書き方になっているな、という印象があるのですが、なぜ賛同を得ているのでしょう。

 

 引用リツイートやリプライを参照しましょう。

 共感してくれていることへの賛同や、価値観を大事にしてくれる、いろいろな価値観を尊重してくれるという意味で賛同を得ています。

 

 しかし、科学的には正しくないのです。なぜならこれは感染症の話だからです。

「自分が」感染して発症した場合のリスクと「自分が」予防接種をして起こるリスクの比較しかしていません。

なかには、予防接種を受けられない人がいます。この人にとっては、片方の選択肢しかありません。感染しない方法をとるには、他の人に予防接種をしてもらって、世の中にウイルスが少ない状態を作るしかないのです。

 このツイートは他人に感染しない生活習慣病のような疾患であればそれぞれの価値観を尊重するでかまいません。(といっても、それぞれの社会的背景を考慮すると「自分さえ良ければいい」というのがまかり通らない立場の人もいます。未成年の子供を養っている人が暴飲暴食の生活はよろしくないですし)

 

 もとより、科学は人類に公平に利益を与えるために、感情と共感を排除する方向に向かってきました。それは、なるべく多くの人の感情や価値観を拾い上げる政治とは相反するものです。

 しかし、すべての勘定や価値観を拾い上げることはできません。「鬼滅の刃」に出てくる童磨の思考回路を拾うのか危険すぎます。(そもそも感情を得たのが死んでからですし、あの価値観はぶっ飛びすぎて拾い上げると収集がつかなくなります)童磨以外の鬼の感情も拾い上げるのは危険すぎるものがあります(一般の人も余裕がなくなったら直ちに鬼の思考・感情になりそうですが)

 そういう意味では、すべての感情を拾わないで人類に効果をもたらす科学のほうが公平と言えます。科学がもたらることは、どんな感情、価値観をもっていても不問とし、受容も否定もしません。

 しかし、たとえ科学的には間違っていたとしても、自分の感情や価値難を拾ってもらえることは、大きな喜びを得るのでしょう。

 自分の持つ感情については問わないとされることは、感情を無視されたと解釈し、

「科学は人に冷たい」という思考になる人が少なくないのではないでしょうか。

 それは違っていて、「科学はどんな人の思想信条価値観も侵害しない。否定することはない。」ではないでしょうか。

 

 

 

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