先日参加した講演会の内容をまとめました。
第6回 兵庫医療大学薬学部生涯研修セミナー
「ポリファーマシーをめぐる問題と薬剤師の関わり」
講師 青島 周一 先生(医療法人 徳仁会 中野病院薬局)
青字で書いているものは完全に私の私見です。
「ポリファーマシーの明確な定義はない」
ただし、処方される薬が5剤を超えると有害事象の発生が増える傾向にあるので、ざっくり5剤という捉えられている印象。
「ポリファーマシー=悪ではない」
処方されている薬が多くても、それぞれの薬が適切に(もしくは効果が危険性を上回って)処方されていれば多剤処方であって問題はない。
そもそも、悪意で行われているポリファーマシーは存在しない。
・医師の患者に良くなってほしいという気持ち
・患者の医療を受けていれば安心という願い
・処方カスケード
・加齢により疾患が増える
・潜在的不適切処方
メディアや一部医療者の中にも「ポリファーマシー=悪」と捉えている人や、経済的な意味で無駄と思っている人がいるよなあ。目先のお金で量るものか?
「医療は人を幸せにしているか?」
個別の事案はともかく、21世紀に入って平均寿命は大きく伸びていない
その上、20世紀初めから75歳時点での平均余命はほとんど伸びていない
(伸びたのは乳幼児~成人期(中高年に入るまで)の寿命)
もはや、医療の生命を延ばすという意味で役割は限界かもしれない。
現在、正しい医療とされることがらは人を幸せにしているか?
その労力の割に効果があるといえるか?
実際に、高齢者においていろいろな生活習慣病で厳密なコントロールと生命予後の
関連を検討する研究がなされているが、厳密なコントロールが余命にプラスになっていない結果も出ている。(生命予後が変わらないものや、かえって死亡率が上がっているものもある。/余命がもともと短いので、もともとの疾患以外の理由で死亡することも多い)
「ポリファーマシーへの介入ではなく、個別の薬物療法への関わり」
処方数に関係なく、患者にとって処方が適切になされているかどうか関わっていくのが薬剤師の仕事。
様々な潜在的不適切処方を解析するツールが出ている。
例)Beersクライテリア
解説
ビアーズ基準 - Wikipedia
www.ncbi.nlm.nih.gov
onlinelibrary.wiley.com
STOPP/STARTクライテリア
STOPP/START criteria for potentially inappropriate prescribing in older people: version 2 | Age and Ageing | Oxford Academic
日本老年医学会「高齢者の安全な薬物療法ガイドライン」
このリンク先には総論のみ記載
https://www.jpn-geriat-soc.or.jp/info/topics/pdf/20150427_01_02.pdf
神戸大学医学部附属病院で行われた多剤併用患者へのSTOPP/STARTクライテリアを用いた処方介入に対する患者さんへの説明文
http://www.hosp.kobe-u.ac.jp/yakuzai/Pharm/clinicalstudy/study_polypharmacy.pdf
処方に介入し、処方数は減ったが、QOL向上には繋がらなかった
処方が減ってQOLが低下していないということは、減らした薬は減らしても減らさなくてもどっちでもいい薬だったという判断につながるかもしれません。この場合は、薬を飲む飲まないの判断は医学的根拠以外の、患者の価値観を尊重する方向になるのが妥当と考えます。
↓高齢者の薬物療法において最も考慮されるべきこと↓
残された余命に対して十分なベネフィットがあるか?
人生の最後5年ぐらいを多剤投与状態で生きる高齢者
老化による機能低下を完全に避けることができない。
高齢者の場合、検査値はよくなったけど死亡が増えるというのは、薬に害があったというよりも寿命が来たという考え方が自然。
また、患者の状況によって考慮するリスクは変わってくる。
例えば認知症患者の場合
認知症薬ドネペジルで余命が伸びたと言っても、それは健康寿命か?
(周囲との関係によってはつらい時期が伸びるだけという可能性も)
認知症に既になっている患者に「認知症になるリスク」は関係するか?
寝たきりの人に骨折リスクは関係するか?
など。
患者さんやその周囲の人との関係など、効果というものを多角的に考慮する必要があります。医療側の視点以外で考えること、患者さんの価値を尊重することが大事になってきます。
この項目の感想としては、
余命を患者さんやその家族に切り出すのは難しい場合がないか?
ある程度健康な時に余命の話をすると冷静に判断できると考えますが、客観的に捉えられない状況で切り出すと「私はもう死ぬのか」と愕然としたり、「一日でも長く生きてほしい、死ぬなんてこと言わないで!」とギャーギャー喚く親族が出て炎上しかねません。そういう親戚がいて、無駄に声が大きいと、ずっと世話してきた家族や本人も言いたいことが言えなくなるのではないかと考えます。
ただ、この私の意見は杞憂とも思います。ある程度高齢(80歳以上)になっているなら、死ぬことを想像しているでしょうから。これが、若くして死に直面する事になった場合は受け入れ難いでしょうが、その場合は今回のエビデンスの対象ではありませんので別の問題となります。
ただ、統計で出てきた余命というのも、あくまで平均なので、眼の前にいる人にそれが当てはまるとも限らない(もしかしから明日逝くかもしれないし、20年以上生きるかもしれない)のは頭に入れておいたほうが良いですね。
ここで本題。
EBMは誤解されている?
確かに誤解されています。
講演の中でも、
押しつけになっているとか
医師に対する攻撃ではないか とか
薬剤師と医師が対立構造になっている
という意見が届いたとありました。
そうなってしまうのは、医師へエビデンスを持っていく手法ではないかと考えます。
医師が処方を考える時の材料として提供できる形に持っていったり、
患者さんがいろいろな感情の揺れ動きの中で出てきた本音を叶える手段として報告に上げたり
医師の薬物治療に対する説明の補足として用いたり(医師と患者の知識と思考のレベルは大きく違う。特に思考訓練の度合いは遥かに格差があります。診察の際は理解したつもりになっても、診察室を出た途端忘れてしまうこともよくあります。それを口語レベルで解説する役割としては、薬剤師は適しているのではないかと考えます。診察における立場と考慮すれば、看護師が適していると思いますが、医師の難解な言葉を咀嚼するという機能を持っている知能レベルを持っている可能性が高いのは現時点では薬剤師ではないでしょうか。医師の意図を阿吽の呼吸で把握して動ける看護師が最適任ですが、そういう方はまずは医師の横にいて診療補助をしてほしいのではないでしょうか。医師の意図を把握して動くという意味ではクラークに当たる人が多く出てくればそういった咀嚼説明に当たれる人が増えると思います。薬局の薬剤師も「医療機関の外にあり、医療機関の診察時間に関係なく独立して相談することができるという意味では優れています。余談ですが、敷地内、院内薬局ではそれは難しいのではないでしょうか。)
色々できると思います。
これ以外にも、
患者さんの気持ちが入っていなくて冷たい とか
感覚を重視していない とか
医療者自身の考えがない とか
いろいろな誤解があります。
実際は、過去の研究でわかった「どっちでもいい薬物効果のもの」に対してにこそEBMは適任なのではないでしょうか。患者さんが何を重視するかがわかれば、その重視する価値観を薬物治療が叶えることができるか根拠を持って判定することができます。
信頼関係と知識。両方必要です。知識や技術があってこその信頼関係です。
「この薬剤師に聞いたら、わかりやすく説明してくれるし、言ってることに嘘がない。そして、自分のことを人として尊重してくれる。自分のことを思ってのことなので、もしその治療が自分に当てはまらなかったとしても受け入れよう。」
言ってることに嘘がない、というのがエビデンスです。
でも、「」の後半部分がないとEBMにはなりません。
むしろ、後半部分だけだと、とんでも医療になりかねません。
患者さんと話をしている時の非言語表現を把握することが感覚で、
そして、患者のことを尊重する、というのが医療者自身の考えではないでしょうか。
やはり、EBMはエビデンスを用いた血の通った医療と考えます。
最後に余談。
早く会場に着きすぎたので、外でポケモンを取りに行こうとしたら、暑いでしょうから
中で待っててくださいと言われました。
ポーアイはコイルとビリリダマがたくさん取れるよ!
もしよろしければバナーのクリックお願いしますm(_ _)m
にほんブログ村
にほんブログ村